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よく他人に「何もしてくれない」といっている人がいます。

 

「何もしてくれない」という人は、見える事実しかみていません。

 

「わかってくれない」も、そうです。

本当は、他人は「してくれている」し、「わかってくれている」こともあるのです。

 

「何もしてくれない」「わかってくれない」のは、実は本人なのです。

自分のことをわかってあげてないので、他人を見ても「何もしてくれない」「わかってくれない」と思っているだけなのです。

 

自分が自分のことをわかってあげていないので

「私がわかってないことをあなたが代わりにわかってください」といっています。

このとき、わかってくれないと言っている人は、相手のことはわかろうとはしていません。

 

このような人はあることを間違えています。

自分のすべてをわかってくれる他人はいないという事実です。

 

 

 

 

「私は何が好きか自分でもわからないのですが、あなたの類まれなる予知能力を使って、私の好物を当ててください」といっています。

 

そして、好物を当てられないと、「また私の好物を当ててもらえなかった。」といっては他人に怒りと憎しみを募らせます。

 

実は、相手は「何もしないでいてくれている」のです。

 

「私は何が好きでしょうか?好物を当ててください」というのは、自分で好物が好きとわかってる人だけが言っていいセリフなのです。

 

自分で自分を棚にあげていることに本人は気づいていません。

相手に求める前に、自分はそれをできているのか?しようとしているのか?というのは、公平性の面において

とても大事です。

 

自分で自分をわかってあげようとしていないのに、他人にはそれを求めるのは、あまりにも理不尽です。

だから人が離れていきます。

 

レースの途中で骨折した人は、自分では歩くことはできません。

 

そんな時は、本当に歩けないので、他人の手を借ります。

 

しかし歩ける能力がある人は、自分の力で歩かなければなりません。

自分で自分をわかってあげようとしていない人は、自分では歩けないと思っています。

 

対して、他人は「あなたは自分で歩ける力があるよね」と思っています。

だから、周りの人は、歩きはじめるのを待っています。

 

それを、「何もしてくれない」「何もわかってくれない」という人は、「他人は無関心だ、なぜ助けてくれないのだ」と他人を攻撃します。

 

その場合の助けてくれは、「力を貸してほしい」ではありません。

 

「私の代わりにお前が私をおんぶして歩け」という欲求です。

 

しかし、他人があなたが歩かない道であなたを背負って歩くことは不可能です。

 

それは、他人からみたときに、「自分の道ではない」からです。

他人には、ひとりひとり異なる人生のレースを歩いています。

 

障害物が多いレースもあれば、平坦な道がある人もいます。

穴がところどころ空いていて、落っこちてしまう人もいますし、運が悪いと、勝手に橋が崩れていることもあります。

 

   

 

 

人それぞれ、レースの難易度や風景は違っています。

レースをあきらめて、歩かなくなってしまった人は、それでもレースを歩かなければなりません。

 

会社や、結婚したパートナーには、もう1つ「みんなで歩くレース」「2人で歩くレース」というのを作ることができます。

 

子どもが生まれたら、子どもが歩く道もできます。

最初のころは、親も一緒にこの道を歩いているのですが、そのうち、1人で歩くレースなので

親は途中から並走しなくなります。

 

親のレース場に子どもを走らせたり、夫婦ふたりの「レース場」が創ることができない人もいます。

 

結婚しているのに、「夫のレース場」と「妻のレース場」しか作れない人は、それぞれ自由にレースを楽しんではいます。

しかし、2人でレース場を作るというのは、共創というレース場になるので、難易度が高いです。

 

 

 

 

まずはお互いのレース場は、違っているということを尊重することです。

相手のレース場にずかずかと踏み込んで、けなしてはならないのです。

 

この自分が歩くレース場が見えてない人がいます。

これが、前述の「わかってくれない・してくれない」と嘆く人です。

 

「わかってくれない」と言う人は、自分のレース場と相手のレース場が一体化してしまっています。

 

だから、このような人は、目のまえに相手が倒れていると(困っている)と、自分のレース場に倒れているように錯覚してしまいます。

 

すると「自分が手を差し伸べてあげなければ」と思ってしまいます。

 

この倒れている人を放って通り過ぎることができません。

 

ここで、通り過ぎる人は、2通りいます。

 

○「相手はいずれ立ち上がって歩けると信じている人」

○「相手に気づかない人」

 

レース場が見えない人(一体化している人)には、この区別ができません。

そして、「自分が倒れているのになぜ助けないのだろう」と思います。

 

周りは放置しているのではありません。

あなたには歩ける力があると信じて見守っているのです。

 

 

放置とは、受動的ではなく、積極的な行動です。

 

そこで、「あの人は助けてくれない人」なのか

「私の力を信じて放っておいてくれた」ととるか?は

 

あなたにかかっています。

 

あなたの見る目にかかっています。

 

それは、他人を「どう取り扱うか?(あの人はこんな人だ)」ではありません。

 

私が私を「どう取り扱うか?」にすべてかかっているのです。

(すべてにかかっている=すべては自分次第という意味です)

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